2010年11月23日火曜日
ヒマラヤに祈る:武井宏允 展
今回のタイトルは、「ヒマラヤに祈るー心の色と形」となっている。
1988年にヴィヴァンで初めての個展をしていらい、一貫して画面から受ける印象は静寂だった。
○・△・□が必ずといっていいほど画面に現れていたのも変っていない。
ただ、かっては水彩と間違うほどのうす塗りの油彩だったのが、最近はイタリア紙にミクストメディアで表現されているため、色調に味わいが加わるようになった。
最近は、アジアが身近になったように、ニュースもアジアをとりあげる事が普通になったが、
30年以上前のインドといえば、関心をしめす人はほとんどいなかったように思われる。
武井先生の口癖は、60年代の学生闘争のあと、人間の本質を求める旅がヒマラヤを中心とした
インド、ネパール、ブータンへと駆り立てたという。そんな旅が今もつづいている。
世の喧騒を離れた環境で、自在に生きるとはこういうことかもしれない。
2010年11月15日月曜日
■日経新聞にポスタースタンプが紹介されました!
ポスタースタンプとの出会いは、今から20年ほど前になるが、当時ポスターに興味を持っていた関係で、一目でこの小さなスタンプが、広告宣伝媒体として非常に意義深いものだと直感した。
それ以来、いろいろな文献探しやルート探しに奔走した時期があったが、日本では全く研究の対象になっていなかった。
なんとかして、ポスタースタンプを世にだしたいと、一人思い込んでいたが、とても一人で処理できる
内容ではなく(数も未知数、資料も無い)、いつの間にか関心は、万華鏡のほうに移ってしまった。
昨年から、やっと万華鏡から手が離れ、元来の絵画やポスターなどの紹介に時間がとれるように
なったため、長年の課題であったポスタースタンプの紹介もすこしずつ出来るようになった矢先の
取材であったため、非常に嬉しい事だった。
ついに、11月11日の特集に紹介された。一人の関心にとどめるにはあまりに貴重な内容が
こうして多くの方に知られることは、大げさに言えば文化の一端に新しいページが加わったことにもなる。
2010年10月20日水曜日
■刷りの魔術師:エクトール ソニエ
ある技法で、日本でもかなり前からこの技法は伝えられてきた。もともと、イギリス人のウイリアム ヘイターが考案した技法だが、この技法を継承して魔法のように美しい刷りの作品を制作しているエクトール ソニエの作品が、今 ヴィヴァンの壁面を占拠しています。
版画は複数印刷するため、同じように刷り上げるのは、まさに熟練しないと至難の業となる。
ソニエは、それを難なくこなしている。
透明感溢れる詩情豊かな作品は、この熟練した技から湧き上がってくる。
2010年10月19日火曜日
■ポスタースタンプが注目されています!
マニアのコレクションアイテムといえる。
昔はポスターの紹介に没頭していたが、ここ10年は万華鏡の紹介と、どちらかというとあまり人に知られていないものに関心が移る癖があるみたい。
20年ほど前、パリで偶然みつけた印刷関係の骨董市の案内をみて、ぶらりよってみた。
あるスタンドの切手のコレクションが目にとまった。ポスターで見慣れたイメージが
あったからだ。でもよく見ると価格がない。あれ?と思い。スタンドのご主人に聞いてみると切手ではないという。
それが、そもそもポスタースタンプとの出会いであった。そのフランス人とはその後
パリにいくたびにお店によりいろいろなコレクションを見せていただいた。
当時、いろいろな資料を探したが、なかなか見つからず、今と違いインターネットもない
時代だったため、自らの足で探しまわるしか方法がなかった。
その後、いろいろな機会にポスタースタンプに出会い、その度にコレクションを増やしていった。ポスターを一時、集めた時があったが、古いポスターはどれもサイズが大きくて、
保管も紙だからと軽く考えていたが、数が増えると大変なことになる。
ポスタースタンプを観た時、これなら小さいから扱いが簡単と思った。ただし、あまりに
情報が少なく、それでは私が老後の楽しみに研究しようなどと考えるまではよかったが、
なかなか進まず、現実の仕事に追われそのままになっていた。
最近は、万華鏡のほうは豪さんが引き受けて以前より熱心に紹介しているため、やっと
ポスタースタンプに関心を移す時間がとれるようになり、昨年久々にポスタースタンプの
簡単な紹介展をした。
すると、先日、突然日経新聞の記者から電話がはいり、ポスタースタンプのことをいろいろ聞かれた。おもいがけないことに非常に驚いたが、新聞社の方が関心を持ってくださるとは、やっとポスタースタプが公に紹介されることになり、感激した。
個人でいくら紹介したくても限度があり、11月に紹介してくださるとのこと故、
やっと、ポスタースタンプにも陽が差してきた感じがする。
これから、少しずつポスタースタンプのことを伝えようと思う。
2010年9月14日火曜日
■上海ポスターの技法がわかりました!
昨日は、評論家の金澤さんが立ち寄り「ヴィヴァンさんは、時々おもしろい展覧会をしますね」と
展示してあるポスターを眺めて、珍しい、珍しいを連発した。
現在展示しているポスターの中にも、手描きのみのリト刷りのもの、一部手描きで一部「網伏せ」
という初期のオフセット技法を併用したものがあると1点ずつ説明してくださった。
現在は、骨董やさんというだけあって、値段まで査定してくださった!
現在のポスターのほとんどは、オール網点のオフセット印刷となる。
23日まで、東急文化村ギャラリーで万華鏡展があり、タッチャンも販売に駆り出されているので、
明日は画廊に立ち寄るとのこと、イメージのアップを頼もう。。と。
2010年8月31日火曜日
■上海ポスター&カレンダー
この作品は、カレンダーの年代に西暦年代が入っているため、1935年に印刷されたものであることがわかる。上海に租界があったのは、1937年までで、当時の上海は海外文化を受け入れた中国でも先進的な都市であり、印刷技術も優れている。
1990年頃、上海に行った時、色々ポスターを探したが、60年代後半の文化大革命でまったく印刷文化の片鱗も無かった状況からは、想像もつかないほど進歩していたことがわかる。
その後の上海の進歩はすさまじい勢いの様子だが、単なる一枚のポスターからもいろいろな時代背景が想像できて楽しい。
マダム
■上海メゾチント作家庄漫さん
メゾチントは、18世紀にヨーロッパで普及した銅版画の一種になるが、非常に根気のいる技法になる。
日本でもメゾチントを専門にする作家は非常に少ない。歯医者さんをしていたと聞き、メゾチントに取り組んでいる理由が分かったような気がした。モノクロの世界が中心で、若干色を加えた作品もあるが、メゾチント独特の黒は、他の版にはない独特の深みがある。
マダム
2010年8月21日土曜日
■「シャガール-ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」展 ~交錯する夢と前衛~
今そこで描かれ、まだペンの熱も冷めてないような衣装や、舞台美術案のドローイング。
シャガールの個性とその世界観、それを自由に表現する姿が生々しく輝きを放っていました。
そういえば前にヴィヴァンにこの「魔笛」のオリジナルリトグラフポスターがありましたが、
もうひとつ感心したのは展覧会自体の造りでした。最初はちょっとちょっと・・シャガールを見に来たんですけど・・・と思わせつつ次第に会場を進むにつれ「おお・・。」「おおお・・・っ」そして最後は泣かせてくれるじゃないですか。。うぅ。。
っと展覧会そのものの構成が良かったのも非常に印象的でした。
ともかく久々に心が高揚したまま会場を後にできた展覧会でした。
帰りは先日ヴィヴァンが企画した版画展「宮山加代子木版画展」でお世話になった丸善ギャラリーがある日本橋丸善で美術雑誌や本を立ち読み。結局「ネットショップの極意」的な本を買って丸善を後にしました。
帰っていつものように庭の手ずくりシャワーで汗を流したのでした^^
タっちゃん
2010年8月16日月曜日
■水木しげるの「妖怪幻想」ポスター
せいかもしれない。
・・・まてよ、でも確か水木しげるといえば、ヴィヴァンを開設してまもなく、「水木しげる原画展」というのを開催したことがあったよな。など、独り言をいいながら引き出しをあけると、まさしく展覧会開催の年に発売されたレコードの宣伝ポスターがでてきた。
2010年8月12日木曜日
■「生命―孤高の画家 吉田堅治
8月9日 夜10時からNHKの特別企画で「生命―孤高の画家 吉田憲治」が紹介された。
1966年にパリのアトリエ17で出会っていらい亡くなる直前までの長いお付き合いだった吉田さんは、既に故人となっている緒方一成のパリ時代の苦楽を共にした親友でもあった。
吉田さんとは、生前ほとんど戦争の話をしたことがなく、特攻隊員だったことも今回はじめて知った。
ただ、戦争は、吉田さんの人生にかなりの影を与えていたことも、なんとなく感じていた。
たしかに、パリに滞在し始めた頃の銅版画の色調は非常に暗かった。
不思議な人で、まったくメチャメチャな日本語とフランス語の混在した吉田語で誰とでも話し、強引に理解させてしまうのは、やはり本人の真剣な訴えと人格の賜物だったと思える。吉田さんに文法はいらなかった。普通なら、何年かパリにいると少しはフランス語の上達度がわかるが、吉田さんのように何十年もパリにいて最初から最後まで同じだった人も珍しい。
それでも、交友関係はどんどん広がり、パリを拠点にロンドン、メキシコ、イスラエル、ノルウェーなど、タフに活躍をはじめた。
吉田さんの絵に変化があらわれたのは、日本から呼んだ奥さんと一緒に暮らすようになってからと思う。だんだん絵のなかに金やカラフルな色が現れはじめた。奥さんの恵美子さんも非常に知的で、影から吉田さんを応援している様子がよく伝わってきた。
その奥さんを失ってから、吉田さんの絵描きとしての本当の人生が始まったように思われる。最初、気になっていた金が落ち着きをみせ、広々とした空間が現れてきたのは、一層精神的ななにかを求めていたのかもしれない。
今回の紹介で、日本ではほとんど無名に近かった作家が知られることになった。
既に、評価のある作家のみが繰り返し紹介されるより、このような形で、無名な作家が紹介されることのほうがはるかに意味深く思われる。
再放映は、8月12日の24時15分からです。
マダム
2010年8月6日金曜日
■閑話休題:いまどきの若者
大抵、年配者が自身の若い頃と比較して否定的な意味で使われていたので、随分反発した記憶のある言葉だ。それが、最近 ふっと自然にでるようになった。
とはいえ、今日 ご紹介する若者とは、なんとスタッフのタッチャンです。
先日、彼より報告があった。「いやー これでやっと毎日シャワーが浴びられます」
日頃、タッチャンは銭湯に仕事の帰りに寄っているとは聞いていた。タッチャンの住いは高級住宅街の一角に残る戦後のアパート(風呂無し、台所無し、クーラー無し、共同トイレ)の代表的なスタイル。
数年後には解体されるらしいが、今でもこういうアパートが残っていた!魅力的なのは、家賃が安いことと大家さんが親切なことという。
たくましいいまどきの若者もいるのよ。
マダム
■久々のハンス ベルメールの銅版画
硬い銅板の上に、ビュランで線、それも曲線を流れるように彫る技は、素晴らしい。
■久里洋二のシルクスクリーン
いろいろある在庫作品のなかから選ぶとき、引き出しの中であざやかに見えた作品が、久里洋二のシルクスクリーン作品。連日の暑さの中でブルーの色調が際立って涼しげに見えた。作品は、1987年にヴィヴァンが出版した限定100部の版画集:ファンタジーに入っていた3点のうちの1点「Flower」
単なる花ではなく、花の根元が鉛筆になっていて線をひいている。絵を描く花が正解といえる。久里洋二の独特のユーモアセンスは、日本という国境を取り払い、世界に通用する
センスとしてもっと理解されて欲しい。
マダム
2010年7月23日金曜日
■マーニックス と インテリアコーディネーターの奥さん
今月末で最終日になる、ベルギー作家のマーニックス エバレートの版画を
現在展示しています。すっかりブログとご無沙汰していたのは、高崎市美術館での
大規模な万華鏡展の準備があったため、無事スタートして少し気を休めていたことも
あります。
さて、このマーニックスに同行して来日した奥さんは、ベルギーでインテリアコーディネータアーをしているとのこと。
飾りつけをはじめたとき、版画と同時に展示していた常設の万華鏡を全部片付けはじめた。2人で夢中になって版画を色々移動させ、万華鏡の展示台もどんどん移動。
テーブルの上に敷いていたクロスもはがしはじめた。まったく言葉を挟む余地もないほど真剣に2人でいろいろ話し合っていた。もう2人に任す他ないと思いつつ3時間あまり。すっかり片付いたギャラリーは、まったく新しい空間に変身していた。
2010年4月23日金曜日
ミュシャとゴーギャン
この写真は、フジテレビの「美の巨人」でも紹介され、その時のコメントが、ゴーギャンがミュシャと共同生活をしていた時、ミュシャが撮影したとのことでした。ゴーギャンとゴッホの共同生活は、
既にひろく知られていますが、ミュシャと共同生活をしていたことは殆どそれまで語られたことはなかったため、その意外性に皆さん驚いています。
お客様より、ゴーギャンがタヒチに行く前なの? と質問され、写真は1895年頃の撮影となっていますが、その辺の説明までないため、調べてみると、1891年と1895年の2度タヒチに渡っています。
1893年にタヒチからパリに戻った時、叔父さんの財産でアパートを買っていますが、同棲していた女性にも逃げられたり、私生活はあまり落ち着いたものではなかった感じがします。
アパートがあるのに何故ミュシャと共同生活?など愚問もわきますが、2度目のタヒチに行く前に撮影されたことだけは、わかってきました。
歴史に残る作家とは、このようなことまで研究の対象になるのでしょう。
2010年4月22日木曜日
朝日新聞のマリオン欄に紹介されました。
加わって冬に逆戻りの天気にもかかわらず、多くの方がミュシャの写真を見に来てくださっています。皆さん、ミュシャの写真からいろいろ想像を深めている様子です。カメラマンの方は、その
味わい深い紙焼きの効果とふるい写真技術の確かさを、ある方は、写真のディテールを見ながら、
その時代の雰囲気を想像したりしながら楽しんでくださっています。
2010年4月20日火曜日
ミュシャのポスターとの出会い
1976年に画廊を開設する前から、非常に関心のあったアイテムがポスターとポストカード。
60年代半ばをパリで過ごしていた時は、余裕の無い学生だったため、ポスターやポストカードの
類に目を奪われていたのか?いや日本にはないセンスのよい内容に惹かれていたほうが強い。
日本に戻ってからも、なにか日本にない良いものを紹介する方法を模索しながら、具体策もないままに、ヨーロッパのポストカードやポスターの制作会社をいろいろ調べ、資料だけ取り寄せていた
時、ある方からパルコを紹介され、丁度パルコでポスターを扱うショップがオープンするということでパルコのポスターハウスにヨーロッパのポスターを納品することになった。60年代はヨーロッパでも、アールヌーボーの波が復活した頃で、ミュシャ、シェレー、スタンラン、ロートレックのポスターの複製ポスターに感心していた時でもあった。
70年代の日本では、ポスターの評価は殆どなく、しかもポスターを売るという発想が一般になかったため、ポスターを千円で売るといったら驚かれた。これらポスターハウスに納品したポスターが、予想以上に売れるようになったのは、新しい波に敏感な若者の支援があったことと思われる。
ギャラリーをオープンしてから、久しぶりにパリに戻り、リューボナパルトを歩いていて、ふと
立ち寄ったギャラリー(このギャラリーはフォロンのシルクスクリーンのポスターを発売したことでもしられていたが、現在はクローズされている)で見せていただいたのが、ミュシャのオリジナルポスター「ゾディアック12宮」だった。
それまで、複製を扱っていたのにオリジナルの作品をみるのは初めてだった。オリジナル作品が
買えるなど考えたこともなかった。
オフセットの複製と違い、品格の漂うポスターは、大理石の石に刷るリトグラフの味わいある感触が
実に美しかった。実際のオリジナル作品を一度見てしまうと、オフセットの複製から、オリジナルの
ポスターを紹介する方向にどんどん移っていくことになった。
もちろん、この記念すべきミュシャのポスターは日本に持ち帰りました。
2010年4月16日金曜日
■ 新聞に載りました。^^
詳しくは↓
http://www.g-vivant.com/Page/USP0014
近々、別の新聞紙にも紹介される予定です。
個展もひと段落して、落ち着く間もなくヴィヴァンのWebをつくり込む&DM、資料つくりの毎日ですが、これが多くの人にヴィヴァンを知ってもらう架け橋と思って大変ながら楽しんでパソコンに張り付くタったちゃんです^^
タっちゃん
2010年4月8日木曜日
■ 閑話休題:タッチャンの個展
します。
ヴィヴァンのホームページで独自のオンラインショップをまもなくたちあげるため、その準備にかれこれ3週間ほどタッチャンは日夜準備に余念がありません。しかも、4月1日から白金台の美容院で個展がはじまり、さらに9日から中野でグループ展がはじまるため、その準備もあり寝る間をおしんでの制作がつづいてます。
今日はミュシャのかわりに「閑話休題」ということでタッチャンの個展のことを書くというと、「閑話休題」ってなんですか。と質問された。
毎日記号だらけの用紙とにらめこしながらパソコンに向かい、わたしからすれば宇宙人の記号語を
みている気分。どうしてあんな文字が理解できるか不思議なのに、閑話休題とは?とは?
タッチャンの展覧会案内:立川陽介展:Panorama and Relativity
会期:4月1日ー29日 10;00-19;30 (月・木 9:30-19:00)
休み:毎週火曜日・第3月曜日
会場:Prospect
住所:港区白金台4-9-18バルビゾン32 3F
TEL:03-3445-1550
注:期間中美容院は、営業していますが作品をみることは可能です。
あらかじめご連絡のうえご来場願います。スペースの都合上、
3人以上のご来場はお控え下さいます様お願いいたします。
*4月13日 7時半よりオープニングパーティーをいたします。この時は、人数の制限はございま
せんので、お気軽にご参加ください。 当日、友人のジャズバンドの演奏も
あります。
2010年4月7日水曜日
■ 外国人作家の名前
特に、ヨーロッパ生まれの作家が、アメリカで活躍した時。または、フランス以外の作家がパリで活躍した場合など。。。同じ作家なのに国によって発音がことなる。一体どこの国の発音を正式名に
したらよいかなど、頭の痛いことが美術界では多々ある。
例えば、ミュシャの名前も、フランスを中心に活躍していたので、日本では「ミュシャ」が一般的に
通用している。実際は、チェコスロヴァキア生まれで、晩年は故国に帰った。チェコスロヴァキアでは、「ムハ」と発音されているようだ。フランス以外では、アメリカに滞在したこともあり、アメリカでは
「ムカ」と呼ばれている。きっとミュシャ本人は、こんな事態になるとは思っていなかっただろうから、
どの国の発音を正式名と決めたことはなかったと思われる。
2010年4月6日火曜日
■ ミュシャと挿画本
消えてしまった。もう7時すぎで、頼みのタッチャンはホームページ作成でパソコン画面に張り付いているため、あきらめてかえってしまった。
事務所にある5台のパソコンで一番の古顔が、私がつかっているもの。何かがあるたびに、
もう寿命ですよとみんな素っ気ない。毎日、今日一日無事でありますようにと願っている。
ミュシャは、パリにでて苦学していた頃から、生活のためにいろいろな挿画本を手掛けた。
1894年から1929年の間に、木版、リトグラフなどで9冊の挿画本を手掛けた。その中でも
とくに有名な作品に、1897年制作の「エルゼ:トリポリの姫君」がある。
今回は、その挿画本も展示している。225部限定の内、35部は特別の和紙に刷ってあり、
180部は普通のヴェラン紙に刷ってある。この本は、35部のうちの32番。しかも、コレクター用に
特別の皮装丁をしたもので、3方金も実にフレッシュに残っており、中のカラーも鮮やかに完璧な
状態のものである。最近では、この普通版を解体して、1点づつ額装して販売しているが。
このような完璧な姿を末永く受け継いでくださる方はいないものだろうか。
■ ミュシャ写真展-アールヌーボー
最近マダムのパソコンの調子が非常に悪くブログ更新難航中です。
マダムの機嫌も悪くなります@_@
マダムにブログレクチャーをするのも僕の仕事ですが・・・すいません、他の事で手が回りません・・・
わたくし事ですが、個展の準備も終わり(ここでも宣伝したいのですがグッとこらえ・・・)一段落と行きたいのですがヴィヴァンホームページの作業が残っており今日も帰りが12時頃でした。
帰りは12時なのですが、ヴィヴァンを出たのは10時・・・・帰宅するだけに2時間は掛かりません。
・・・どこに行ってたかというと・・・・銭湯です。^^!帰りが遅くなる日は銀座でひと風呂して帰るのが僕の日課です^^家に帰るとお風呂はありませんから!!^^;;
予断が長くなりましたが、今ヴィヴァンで開催中のアールヌーボーの巨匠ミュシャ。とてもいい感じです。
アールヌーボーとは19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパで起こったムーブメントですが、わたくし、タっちゃんはこのアールヌーボの作品が大好きです。
ちなみにマダムはアールデコ派ですよね?
僕がベルリンにいたころ週に一度タダになる日を見計らっては何度となくベルリン市内にあるアールヌーボ美術館に一人足を運んでは「たまらんなぁ~」っと呟いていたのでした。
あのなんともいえない。。ともするとヤリすぎな曲線美。。
ガラスなどの工芸で特に名を知られているアールヌーボですが、僕は家具や建築のその美意識に惹かれます。
今日はその作品を紹介して寝ますー
タっちゃん
2010年4月3日土曜日
■ ミュシャ展の準備
時間があれば、国際フォーラムで開催中の東京アートフェアーにもいきたくて、時計とにらめっこ。
やはり、今日は準備で終わりそう。
ミュシャは、ポスターや挿画本を数多く制作しているが、そのための下絵がわりに、モデルを
使っている様子がこの古い写真から見える。その写真の中に、「Documents Decoratives」
のための習作用モデルというタイトルの写真がある。 Documents Decoratives(装飾資料集)
という本は、本としてはかなり大きく、72点のデザイン画が入っていた。花、壁紙、壁画、ステンドグラス等のための習作でもあり、ミュシャのデザイナーとしてのセンスも伺える内容だ。今回は、残念ながらこの本の表紙のみの展示となる。これらの、本は、中の作品が一点ずつ額装され販売されてしまうため、完本の姿でみることは少ない。
たまたま、今回展示の写真がこの装飾画集と関連しているため、展示することにした。
マダム
2010年3月31日水曜日
■ミュシャ写真展が始まります!
ミュシャの写真集を見つけ出し、いつか紹介しようと思っていた。
いよいよ4月5日から開催の予定で準備を進めています。
写真は、1895年から1919年の間に、ミュシャが撮影した風景、モデル、友人などの写真10枚です。数は少なくても、ミュシャの写真は、あまり紹介されていないので非常に貴重な時代のドキュメントになるでしょう。
マダム
2010年3月27日土曜日
■ イッセイ オガタとファッションアート
今でこそ、ジーンズの破りれも脱色もファッションとなったが、1990年代ごろは、ブランド品を
身につけることがステータスとなっていたため、ジーンズがファッションの主流とはいえない時代だった。そんな時代、イッセイオガタのドローイングの勢いは、キャンバスをはみだし、身近な洋服や
シャツに及び、シャツやコートをアクリルペイントで描き、破った。しかも、それを平気で着て
歩き回ったものだから、電車などに乗り込むと、一瞬車内の視線がオガタに集中し、驚いて避けて通る人もいた。まさに、ゴーイングマイウェイで進んでいた。
その頃、ギャルリーヴィヴァンは日本でも盛んになってきた国際アートフェアのひとつNICAFにも参加するようになり、1994年に横浜で開催された第3回国際コンテンポラリーアートフェアーで、
フランスと日本の作家を紹介し、イッセイオガタのコートに着彩した作品をポスターにした。
会場では、希望者の服に直接ペイントしたりして喜ばれた。
ますますエスカレートしたファッションアートは、渋谷のロゴスギャラリーをはじめ、表参道の同潤会アパート1階にあったギャラリー華音留、1997年国際展示場で開催されたNICAFで強烈なインパクトを与えた。
ジーンズと迷彩服は、以後イッセイオガタのユニフォームとなった。
マダム
2010年3月24日水曜日
■ イッセイオガタのバイクと女
マダム
2010年3月23日火曜日
■ イッセイ オガタとドローイング
オガタのターニングポイントとなったドローイングのことを書こうと思う。
10年あまりをモノクロの世界に費やしたが、ストイックな版画の表現が必ずしも自分の求めている表現とは思っていなかったみたいで、色々なエスキスをはじめた。
「オレは、都会の喧騒が好きだ」と言いながら、都心にでることは少なく、へら釣りに相変わらず
夢中になっていた。それでも、子どもたちが次第にオガタの手を離れ、新しいアトリエに越すと
一気に強烈な色彩が現れはじめた。いままで、黒のなかにあらゆる感性、情念を込めてたのが、
黒いチョーク、筆で荒々しく書きなぐる野性的な表現へと変わっていった。ドローイングの直接
一気に描きあげるスピード感は、ストイックな版画表現から開放された喜びに溢れ、以後
やむことのないオガタの表現となった。
1985年にギャルリーヴィヴァンは、ニューヨークアートエキスポにオガタの作品をはじめ、日本人アーチストの作品を出品した。その後1987年まで3回連続出展した。 前年の1984年にスイス、バーゼルのアートフェアが初めての海外での日本人作家紹介であった。
日本人作家の版画とポスターを展示したが、日本人作家の版画は、近くでみるとその精緻な仕上がりにおどろくが広い会場でのインパクトは弱かった。
そのため、ニューヨークではドローイングを紹介しようということになり、ポスターにもオガタの作品を
使った。広いコンベンションセンター内が、人で埋まり、活気ある展覧会場だった。
この頃、オガタが関心をもっていたのはバイクと女。よくモデルは誰ですか。と聞かれるが、モデルを描くことはなく、モデルをつくりあげるのが作家の仕事なのだと思う。バイクと女性の形態感が
オガタの表現に向いていたのかもしれない。最初は、硬かった表現が、次第に柔軟な表現に
なっていったのは、筆を自由に使いこなせるようになったからと思える。
1985年に第5回ハラアニュアルに招待されたのは、オガタにとっての重要なターニングポイントと
なった。その頃、あまりドローイングを表現として取り入れている作家はいなかったと思われる。
後年、当時副館長をしていた金澤毅さんが、ハラアニュアルは、ヤングアーチストを紹介する展覧会だが、50歳をこえたアーチストが選考されたのは、後にも先にもオガタさんだけです。と語った。確かに、オガタの作品を見たひとは、若い作家と思う方が多い。その画面から噴出すエネルギーは年齢ではない、作家の資質と内面の情念の力そのものと思われる。ドローイングの中心となる
線の力こそ作家の力量を測れるものにおもわれる。
2010年3月22日月曜日
■ イッセイ オガタ:黒の触視覚
パリ時代からずっとこだわっていた黒が、次第に重厚さを増し、黒々といろいろな物質、人体を覆うようになっていった。黒そのものをあたかも色としてより、生き物のように感じ表現したかったのかもしれない。
エッチングという技法は、時に実に禁欲的な作業に思われる。冷たく硬い銅板に向かって、もくもくと
ひたすら削ったり、塗ったりする作業をくりかえす。やっと、版ができると印刷の試し刷りがはじまる。
当時は、まだアトリエも完備していなかったため、マンションのベランダに1トンもする大型のプレス機を置いたはよいが、半分以上は上のベランダのひさしからはみだし、雨の時は、ぬれ放題。展覧会が近づくと、印刷が大変だった。うっかりすると、子どもが硝酸の入ったバット(プラスチックの大型容器)の中で裸足であそんだり、プレス機から飛び降りたり。元気な子どもと格闘しながらの制作だった。この頃まで、ワタシも版画を制作していたので、2人一緒の作業も多かった。
1978年に銀座7丁目のあたらしい場所に越したため、かなりまとめた作品を発表することができた。
その後、熊本、名古屋、札幌の画廊での個展がつづいた。
マダム
2010年3月20日土曜日
■ イッセイ オガタと釣り
ホームページリニューアルの仕事の期限が迫り、しばらくブログまで書けないのでよろしくと昨日
頼まれた。急に責任を感じたのは、ブログに慣れていないからかもしれない。社長のゴウさんもタッチャンもスラスラ書いているように見えるが、文才の違いなのか、どうも緊張感が消えない。
さて、今日は暖かいというより、暑いくらいの日差しとなった。こんな日は、釣り日和というのかもしれない。
いつの頃からオガタが釣りを始めたのか記憶にない。1976年に無謀にも画廊経営のいろはも知らず、銀座8丁目にギャラリ-を開いたため、わたしは、そちらに気をとられていた。
日曜になると姿が見えないオガタは、一体どこにいっているのか。普段子どもの面倒をみてくれているため日曜くらい1人になりたいのかもしれないと思い、あまり詮索した記憶はない。
そのうち、スケッチでもしているのかなと思っていると、浮きを作ったりし始めた。そのうち、竿が1本、2本と増えはじめ、やっと石神井にある釣堀にいっていることがわかった。雨の日も、風の日も毎週早朝から夕方まで必ず通っていた。
釣りにいっているのに魚の姿がまったく見えないのは、よほど釣りがうまくないのかと気の毒におもい、結果をきいたこともなかった。だんだん、絵の制作より釣りに夢中になっている様子が加速し、子どもが学校で、おとうさんの職業はと聞かれ、漁師と答えたと聞き、オガタに注意したことがあったが、釣りに捕らわれた人には、どんな言葉もつうじなかった。
内心、釣りの時間をもっと絵の制作にまわしたほうがいいのにと思いながらも、九州男のガンコさ
(もっこすというらしい)とはこういうものかとあきらめた。
そのうち、金の盾を持ってかえるようになり、その数がどんどん増えていった。それなのに魚はもち帰らない。不思議におもって聞くと、「へら」は食べられない魚で、金の盾は優勝記念だという。
「食べられない魚を釣る」などということは、魚に縁のない山国生まれのわたしには想像もつかないことだった。
食べられない魚、しかも釣ったあとまた池にもどす。そのために、1日池をにらめっこしながらすわりつづける。なんという無益の行為。とすこし冷ややかな目でみていたが、ある時、美術家の吉村
益信さんが、月刊へらのカットと随筆を代わってくれないかと連絡してきた。
その仕事は、1年の予定が評判がよかったのか、かなり長く続いた。以後、オガタは堂々と釣りに励むようになった。
最初は、釣り場の景色が多かったが、かなり大胆に自由にさせていただけるようになり、オガタ独自のコラムになった。芸は身を助けるとはこのことねとわたしもやっと納得した。
マダム
2010年3月19日金曜日
■ カンパーニュプルミエール通りのカッフェで
古い写真は、全てモノクロ。スタッフの1人徳永さんがなつかしそうに「あら、モノクロですね」と声にだすほど、最近はモノクロ写真がめずらしくなった。
そんな古い写真の一枚に、オガタと同郷の画家宮崎静夫さんが送ってくださった写真がある。
カンパーニュ プルミエール通りにあったカッフェで、3人(オガタ、私、宮崎氏)が、くつろいでいる所。みんなワ・カ・カッタ。
この通りに、オガタが住んでいたと前のブログで書いたが、あとでよく考えたら、もっと以前に私もこの通りのアパートの一部屋を友人とシェアしていた時期があったことを思いだした。不思議に縁のある通りだということが、今わかった気がする。
この通りは、モンパルナス界隈にちかく、当時というより、20世紀はじめよりメトロヴァヴァンの前にある、ドームやクポールは、界隈のアーチストの社交場となっていた。毎日、アトリエの帰りにカッフェにより、コーヒーを飲むのが日課になっていた。カッフェには、常連さんが多く、各自の定席もあったりして、お互いに顔見知りで、ギャルソンもみんなの顔を覚えており、憩いの場所になっていた。
特に、クポールは、画家というより、文化人の溜まり場という感じだった。クポールの通りに面した一画は、カッフェになっていたが、奥はレストランとなっており、その一隅でサルトルとボーボワールが一緒に食事をするのに遭遇したり、日常のごく普通の風景にこういうシーンがある街は、魅力的だった。
今年、久しぶりに、ドームによって見たが、以前よりだいぶきれいに改装されていたが、
かってのような親しみやすい雰囲気が消えていたのは残念だった。
マダム
2010年3月17日水曜日
■ 「日野啓三:私のなかの他人」の装丁
人の記憶はあいまいなもの。(特にわ・た・し・)
先日、イッセイオガタの黒の作品のことを書いたが、実は、文藝春秋社から昭和50年に出版された日野啓三の「私のなかの他人」を開いて同じ作品が載っているのに気がついた。
日本に戻ったばかりで、これから銅版画をどのように展開させていくか、迷っていた頃、当時文藝春秋社にいた大学時代の同窓生和田氏から、本の装丁のお話を頂いた。非常にうれしいお話で、
モノクロの作品がどのような形で文芸書に現れるのか興味深かった。
時を経て、あらためてこの本を手にすると、その中のエッセイの一遍「形無いものの影」とオガタの
黒のシリーズが新しい顔で表れてきた。まったく違う次元と意図で制作していたものが、ある時、偶然に共通性をもって理解され、語りかける。新しい発見があった。
マダム
2010年3月15日月曜日
■ パリのアトリエ17
外国人によく知られているパリの版画工房として今も尚続いているいるのが、アトリエ17.
工房といっても、作家の作品を刷り師が専門にする工房ではなくて、作家たちが自由に制作できるアトリエのほうになる。私は、たまたま画家の矢柳剛さんの紹介でアトリエ17を知ったが、朝から夕方まで、真剣に仕事をするアーチストたちに触発され、その熱気にまきこまれていった。その後、アトリエの歴史をしったが、このアトリエから世界に様々なアーチストが飛び立ち、それぞれの国で活躍することになったのを知ったのはかなりたってからのことになる。当時は、作家たちのひたむきな生き方にのみ関心があった。同時期にアトリエで制作した日本人作家で現在も活躍している作家には、画家の矢柳剛、松谷武判、富樫実、吉田堅治がおり、それ以外にも多くの作家が活躍している。
アトリエ17は、イギリス人のスタンレイ ウイリアム ヘイターが1927年にヴィラ シャブロに開設。30年代には、ミロ、アルプ、タンギィなどがアトリエで仕事をしたこともあるという。1933年に、リューカンパーニュプルミエール17番地に移ったため、その番地をとって「アトリエ17(ディセット)」と名付けられた。このカンパーニュ プルミエール通りは、モンパルナス墓地に近い、ごく普通の通りであったが、60年代には、まだ木造アパートがかなり残っていた。その木造アパートには、アーチストも多く住んでいた。オガタが住んでいたアパートも、まさにこの通りの木造アパートにあった。同じ建物に、浜口陽三の仕事部屋もあった。同じ通りの入り口にあった、もっと立派な建物には、かって藤田嗣司や作家のヴォーヴォワールも住んでいたとのこと。パリの通りの名前の多くは、歴史上の人物の名前が付いていて、歩きながら歴史の勉強が出来る。このカンパーニュ プルミエールのアトリエは、第二次大戦まで。その後ヘイター先生はニューヨークにアトリエ17を移し、再びパリに戻ってきた1950年にリュー ダゲールに新しくアトリエ17を開いた。このアトリエも、木造であったが、取り壊しになるため、同じ通りのほかの場所に移転した。丁度、この時期に私も、オガタも一緒に版画を制作していた。1969年にパリを去った後、さらにアトリエは移転して、ヘイター先生が亡くなった後、助手をしていたエクトール ソニエがアトリエを継承。名前をアトリエ コントルポワンとして、今も世界中の生徒を受け入れている。
マダム
2010年3月13日土曜日
■ ”二階堂”と”いいちこ”のテレビCM
前回”いいちこ”の広告について書きましたが。
今回はいいちこに次ぐ有名麦焼酎”二階堂”の宣伝CMをご紹介します。
このCMは東京でも流れているのでしょうか?東京の我が家にはテレビがないので分かりません;
お馴染みの"いいちこ"のCMもご一緒に。
”二階堂”と”いいちこ”のCM。。方向性は似ていますが”二階堂”は多少、演出が狙いすぎな部分が見えてしまうのがタっちゃん的には気になるとこです。が、大分県民にはなじみ深く、落ち着くCMです。
これが夜ご飯時に流れるとどこかホッとしますー
製作は大広(大広九州)だそうです。監督や演出家などは情報は分かりません;
たっちゃん
■ ジョルジュ・マチュー
そのモティーフとなった作家、ジョルジュ・マチューについてもう少し詳しくマダムから話を聞くことができました。
僕も感心したように、「よくこんな自由なポスターがつくれたなー」っというのは、やはり時代背景がありました。
当時は彼のように「画家」が広告界に姿を現すことは珍しくなく、企業と画家の接点が強かったんですね。
他には「アフィシスト」というカテゴリーが出来るくらいポスター専門のペインターがいました。
特に60、70年代はそれが一番盛んだった時期と言われています。
んんーなんという生き生きした時代でしょう!今はなんとなく「画家」の立場が陰気くさいものになっているように感じます。海外はまだそうでもないのですが、ここニッポンは残念ながらその傾向が強い。。
日本でもこの時代には企業と画家の接点は強かったのですがこれについてはまた別の機会に取り上げようと思います。
さて、なぜ60、70年代のポスターがこうも生き生きとしているかというと、一つのポスターの企画がアートディレクター、アーティスト、グラフィックデザイナーというチームで進められていたからなんですねー
こういう話がマダムから聞けるのが面白くてしかたがないです。
まだまだポスター初心者のタっちゃんとしてはもっと知りたい分野になってきています@_@
タっちゃん
■ エールフランスのポスター2
しかし先日パリから帰ってきたマダムのお土産のチーズがまだ冷蔵庫の中にありますが、横を通るだけでチーズ臭くって、、、。
はっきり言って臭い足の臭いです・・・。
これをマダムは町田から銀座まで持って来たとは・・・@_@
「電車乗り換えるたんびに、乗客が鼻をくんくんして見る見る表情変えるのが分かったわよ。ホホホ。」
byマダム
恐るべしマダムの大きな肝っ玉^^;
たっちゃん
2010年3月12日金曜日
■ 下町のナポレオンの故郷
なのですが今下町のナポレオンの故郷に帰って来ています。^^;
下町のナポレオン・・・そう”いいちこ” そう、三和酒類 そう、 大分、ですー
せっかく大分にいるのだから大分発信のポスターを取り上げたいと思います。
そう”いいちこのポスター”です。
ひいきしている訳ではありませんが、今、日本で見る広告、ポスター、テレビ宣伝でこの”いいちこ”の視点、、デザインのレベルは目を見張るものがあります。
今日はいくつか”いいちこ”の広告をご紹介しましょう^^!
もうすでにお馴染みの広告ですが改めてどうでしょう・・・
非常に美しい広告ではないですか。。。
当時無名だった”いいちこ”をここまで大きく有名にしたのはその品質もさることながら、この広告、宣伝の効果もあるといえましょう。何人かのデザイナーの方がそれを手がけていますが、核になったのは、河北秀也。
『〈河北秀也〉1947年福岡県生まれ。東京藝術大学卒業。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。アートディレクター。地下鉄マナーポスターシリーズデザインなどを手がけた。』
※スパイシーより
たっちゃん