デザイナーのタッチャンとコンビでブログを書いているが、タッチャンの個展準備とヴィヴァンの
ホームページリニューアルの仕事の期限が迫り、しばらくブログまで書けないのでよろしくと昨日
頼まれた。急に責任を感じたのは、ブログに慣れていないからかもしれない。社長のゴウさんもタッチャンもスラスラ書いているように見えるが、文才の違いなのか、どうも緊張感が消えない。
さて、今日は暖かいというより、暑いくらいの日差しとなった。こんな日は、釣り日和というのかもしれない。
いつの頃からオガタが釣りを始めたのか記憶にない。1976年に無謀にも画廊経営のいろはも知らず、銀座8丁目にギャラリ-を開いたため、わたしは、そちらに気をとられていた。
日曜になると姿が見えないオガタは、一体どこにいっているのか。普段子どもの面倒をみてくれているため日曜くらい1人になりたいのかもしれないと思い、あまり詮索した記憶はない。
そのうち、スケッチでもしているのかなと思っていると、浮きを作ったりし始めた。そのうち、竿が1本、2本と増えはじめ、やっと石神井にある釣堀にいっていることがわかった。雨の日も、風の日も毎週早朝から夕方まで必ず通っていた。
釣りにいっているのに魚の姿がまったく見えないのは、よほど釣りがうまくないのかと気の毒におもい、結果をきいたこともなかった。だんだん、絵の制作より釣りに夢中になっている様子が加速し、子どもが学校で、おとうさんの職業はと聞かれ、漁師と答えたと聞き、オガタに注意したことがあったが、釣りに捕らわれた人には、どんな言葉もつうじなかった。
内心、釣りの時間をもっと絵の制作にまわしたほうがいいのにと思いながらも、九州男のガンコさ
(もっこすというらしい)とはこういうものかとあきらめた。
そのうち、金の盾を持ってかえるようになり、その数がどんどん増えていった。それなのに魚はもち帰らない。不思議におもって聞くと、「へら」は食べられない魚で、金の盾は優勝記念だという。
「食べられない魚を釣る」などということは、魚に縁のない山国生まれのわたしには想像もつかないことだった。
食べられない魚、しかも釣ったあとまた池にもどす。そのために、1日池をにらめっこしながらすわりつづける。なんという無益の行為。とすこし冷ややかな目でみていたが、ある時、美術家の吉村
益信さんが、月刊へらのカットと随筆を代わってくれないかと連絡してきた。
その仕事は、1年の予定が評判がよかったのか、かなり長く続いた。以後、オガタは堂々と釣りに励むようになった。
最初は、釣り場の景色が多かったが、かなり大胆に自由にさせていただけるようになり、オガタ独自のコラムになった。芸は身を助けるとはこのことねとわたしもやっと納得した。
マダム