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Galerie vivant アートブログ~空のように自由に~

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2010年3月11日木曜日

■ パリの版画工房と作家たち

パリの版画工房といえば、なにかかっこいい場所に聞こえるが、1960年代中頃の版画工房は、
非近代的な、職人さんの作業所ともいえる雰囲気が漂っていた。
当時、日本からもいろいろな作家が、パリを目指し苦労しながらがんばっていた。作家が制作できる版画工房は少なく、伝統的なエッチング技法を学んだり、制作できる工房として有名だったのが、
ドイツ出身の版画家ジョニー フリードランデルの工房と新しい技法を開発したイギリス出身の版画家ウイリアム ヘイターのアトリエ17(フランス語でディセット)だった。一度だけ、フリードランデルの
アトリエを訪ねたことがあるが、薄暗い部屋の中に硝酸とインクの匂いが立ち込め、閉鎖的なイメージに驚いた。ただ、このアトリエで制作していた多くの作家は、その後ヨーロッパはじめ日本でも活躍している。日本の版画史にも残る作家として筆頭にあげられる浜田知明先生をはじめ、夭折した荒木哲夫。彼とは日本に戻ってから親交がはじまり何度か彼の個展を開催した。ドイツ人のウォルフガン ゲフゲンもフリードランデルのアトリエでオガタと一緒だったことを知ったが、最初は東京版画ビエンナーレで受賞した作品に感銘し、パリに会いに行きオガタを覚えていてその奇遇に驚いた。彼のメゾチントの作品は、物質を超えた精神性の極みを表現しているものとして、当時日本の作家たちにも多大な影響を与えた。その他、スイスの女流版画家で日本にも多くのファンをもつ
アンナピア アントニーニも同じアトリエだった。フリードランデルのアトリエはその後80年代に閉鎖されたと聞いている。
一方、私が通っていたヘイターのアトリエは、木造の一軒家でリュー ダゲールにあった。一軒家と
いっても、くづれんばかりのという形容詞が必要なくらいの建物ではあったが、天井が高く、開放的
だったのは、ヘイターの気質も影響していたのかも知れない。イギリス人としては小柄であったが、
ブルーの瞳は鋭く、講義は熱気がこもり、女生徒のお尻をそっとなでながらの講義もあり、すべて
新鮮だった。アメリカ、ドイツ、ベルギー、フランス、日本、マレーシアなどいろんな国から生徒が集まっていた。ヘイター式という銅版画の技法は、通常色版を何枚か重ねて刷る代わりに、1版のみで、ローラーを変えながら色を重ねて印刷できる1版多色刷りといわれる技法。最初に、この技法の理論と版の制作方法を学ぶと、あとは自由に制作できたため、各自さまざまな表現を追及して
毎日が充実していた。


マダム