外国人によく知られているパリの版画工房として今も尚続いているいるのが、アトリエ17.
工房といっても、作家の作品を刷り師が専門にする工房ではなくて、作家たちが自由に制作できるアトリエのほうになる。私は、たまたま画家の矢柳剛さんの紹介でアトリエ17を知ったが、朝から夕方まで、真剣に仕事をするアーチストたちに触発され、その熱気にまきこまれていった。その後、アトリエの歴史をしったが、このアトリエから世界に様々なアーチストが飛び立ち、それぞれの国で活躍することになったのを知ったのはかなりたってからのことになる。当時は、作家たちのひたむきな生き方にのみ関心があった。同時期にアトリエで制作した日本人作家で現在も活躍している作家には、画家の矢柳剛、松谷武判、富樫実、吉田堅治がおり、それ以外にも多くの作家が活躍している。
アトリエ17は、イギリス人のスタンレイ ウイリアム ヘイターが1927年にヴィラ シャブロに開設。30年代には、ミロ、アルプ、タンギィなどがアトリエで仕事をしたこともあるという。1933年に、リューカンパーニュプルミエール17番地に移ったため、その番地をとって「アトリエ17(ディセット)」と名付けられた。このカンパーニュ プルミエール通りは、モンパルナス墓地に近い、ごく普通の通りであったが、60年代には、まだ木造アパートがかなり残っていた。その木造アパートには、アーチストも多く住んでいた。オガタが住んでいたアパートも、まさにこの通りの木造アパートにあった。同じ建物に、浜口陽三の仕事部屋もあった。同じ通りの入り口にあった、もっと立派な建物には、かって藤田嗣司や作家のヴォーヴォワールも住んでいたとのこと。パリの通りの名前の多くは、歴史上の人物の名前が付いていて、歩きながら歴史の勉強が出来る。このカンパーニュ プルミエールのアトリエは、第二次大戦まで。その後ヘイター先生はニューヨークにアトリエ17を移し、再びパリに戻ってきた1950年にリュー ダゲールに新しくアトリエ17を開いた。このアトリエも、木造であったが、取り壊しになるため、同じ通りのほかの場所に移転した。丁度、この時期に私も、オガタも一緒に版画を制作していた。1969年にパリを去った後、さらにアトリエは移転して、ヘイター先生が亡くなった後、助手をしていたエクトール ソニエがアトリエを継承。名前をアトリエ コントルポワンとして、今も世界中の生徒を受け入れている。
マダム