2010年3月31日水曜日
■ミュシャ写真展が始まります!
ミュシャの写真集を見つけ出し、いつか紹介しようと思っていた。
いよいよ4月5日から開催の予定で準備を進めています。
写真は、1895年から1919年の間に、ミュシャが撮影した風景、モデル、友人などの写真10枚です。数は少なくても、ミュシャの写真は、あまり紹介されていないので非常に貴重な時代のドキュメントになるでしょう。
マダム
2010年3月27日土曜日
■ イッセイ オガタとファッションアート
今でこそ、ジーンズの破りれも脱色もファッションとなったが、1990年代ごろは、ブランド品を
身につけることがステータスとなっていたため、ジーンズがファッションの主流とはいえない時代だった。そんな時代、イッセイオガタのドローイングの勢いは、キャンバスをはみだし、身近な洋服や
シャツに及び、シャツやコートをアクリルペイントで描き、破った。しかも、それを平気で着て
歩き回ったものだから、電車などに乗り込むと、一瞬車内の視線がオガタに集中し、驚いて避けて通る人もいた。まさに、ゴーイングマイウェイで進んでいた。
その頃、ギャルリーヴィヴァンは日本でも盛んになってきた国際アートフェアのひとつNICAFにも参加するようになり、1994年に横浜で開催された第3回国際コンテンポラリーアートフェアーで、
フランスと日本の作家を紹介し、イッセイオガタのコートに着彩した作品をポスターにした。
会場では、希望者の服に直接ペイントしたりして喜ばれた。
ますますエスカレートしたファッションアートは、渋谷のロゴスギャラリーをはじめ、表参道の同潤会アパート1階にあったギャラリー華音留、1997年国際展示場で開催されたNICAFで強烈なインパクトを与えた。
ジーンズと迷彩服は、以後イッセイオガタのユニフォームとなった。
マダム
2010年3月24日水曜日
■ イッセイオガタのバイクと女
マダム
2010年3月23日火曜日
■ イッセイ オガタとドローイング
オガタのターニングポイントとなったドローイングのことを書こうと思う。
10年あまりをモノクロの世界に費やしたが、ストイックな版画の表現が必ずしも自分の求めている表現とは思っていなかったみたいで、色々なエスキスをはじめた。
「オレは、都会の喧騒が好きだ」と言いながら、都心にでることは少なく、へら釣りに相変わらず
夢中になっていた。それでも、子どもたちが次第にオガタの手を離れ、新しいアトリエに越すと
一気に強烈な色彩が現れはじめた。いままで、黒のなかにあらゆる感性、情念を込めてたのが、
黒いチョーク、筆で荒々しく書きなぐる野性的な表現へと変わっていった。ドローイングの直接
一気に描きあげるスピード感は、ストイックな版画表現から開放された喜びに溢れ、以後
やむことのないオガタの表現となった。
1985年にギャルリーヴィヴァンは、ニューヨークアートエキスポにオガタの作品をはじめ、日本人アーチストの作品を出品した。その後1987年まで3回連続出展した。 前年の1984年にスイス、バーゼルのアートフェアが初めての海外での日本人作家紹介であった。
日本人作家の版画とポスターを展示したが、日本人作家の版画は、近くでみるとその精緻な仕上がりにおどろくが広い会場でのインパクトは弱かった。
そのため、ニューヨークではドローイングを紹介しようということになり、ポスターにもオガタの作品を
使った。広いコンベンションセンター内が、人で埋まり、活気ある展覧会場だった。
この頃、オガタが関心をもっていたのはバイクと女。よくモデルは誰ですか。と聞かれるが、モデルを描くことはなく、モデルをつくりあげるのが作家の仕事なのだと思う。バイクと女性の形態感が
オガタの表現に向いていたのかもしれない。最初は、硬かった表現が、次第に柔軟な表現に
なっていったのは、筆を自由に使いこなせるようになったからと思える。
1985年に第5回ハラアニュアルに招待されたのは、オガタにとっての重要なターニングポイントと
なった。その頃、あまりドローイングを表現として取り入れている作家はいなかったと思われる。
後年、当時副館長をしていた金澤毅さんが、ハラアニュアルは、ヤングアーチストを紹介する展覧会だが、50歳をこえたアーチストが選考されたのは、後にも先にもオガタさんだけです。と語った。確かに、オガタの作品を見たひとは、若い作家と思う方が多い。その画面から噴出すエネルギーは年齢ではない、作家の資質と内面の情念の力そのものと思われる。ドローイングの中心となる
線の力こそ作家の力量を測れるものにおもわれる。
2010年3月22日月曜日
■ イッセイ オガタ:黒の触視覚
パリ時代からずっとこだわっていた黒が、次第に重厚さを増し、黒々といろいろな物質、人体を覆うようになっていった。黒そのものをあたかも色としてより、生き物のように感じ表現したかったのかもしれない。
エッチングという技法は、時に実に禁欲的な作業に思われる。冷たく硬い銅板に向かって、もくもくと
ひたすら削ったり、塗ったりする作業をくりかえす。やっと、版ができると印刷の試し刷りがはじまる。
当時は、まだアトリエも完備していなかったため、マンションのベランダに1トンもする大型のプレス機を置いたはよいが、半分以上は上のベランダのひさしからはみだし、雨の時は、ぬれ放題。展覧会が近づくと、印刷が大変だった。うっかりすると、子どもが硝酸の入ったバット(プラスチックの大型容器)の中で裸足であそんだり、プレス機から飛び降りたり。元気な子どもと格闘しながらの制作だった。この頃まで、ワタシも版画を制作していたので、2人一緒の作業も多かった。
1978年に銀座7丁目のあたらしい場所に越したため、かなりまとめた作品を発表することができた。
その後、熊本、名古屋、札幌の画廊での個展がつづいた。
マダム
2010年3月20日土曜日
■ イッセイ オガタと釣り
ホームページリニューアルの仕事の期限が迫り、しばらくブログまで書けないのでよろしくと昨日
頼まれた。急に責任を感じたのは、ブログに慣れていないからかもしれない。社長のゴウさんもタッチャンもスラスラ書いているように見えるが、文才の違いなのか、どうも緊張感が消えない。
さて、今日は暖かいというより、暑いくらいの日差しとなった。こんな日は、釣り日和というのかもしれない。
いつの頃からオガタが釣りを始めたのか記憶にない。1976年に無謀にも画廊経営のいろはも知らず、銀座8丁目にギャラリ-を開いたため、わたしは、そちらに気をとられていた。
日曜になると姿が見えないオガタは、一体どこにいっているのか。普段子どもの面倒をみてくれているため日曜くらい1人になりたいのかもしれないと思い、あまり詮索した記憶はない。
そのうち、スケッチでもしているのかなと思っていると、浮きを作ったりし始めた。そのうち、竿が1本、2本と増えはじめ、やっと石神井にある釣堀にいっていることがわかった。雨の日も、風の日も毎週早朝から夕方まで必ず通っていた。
釣りにいっているのに魚の姿がまったく見えないのは、よほど釣りがうまくないのかと気の毒におもい、結果をきいたこともなかった。だんだん、絵の制作より釣りに夢中になっている様子が加速し、子どもが学校で、おとうさんの職業はと聞かれ、漁師と答えたと聞き、オガタに注意したことがあったが、釣りに捕らわれた人には、どんな言葉もつうじなかった。
内心、釣りの時間をもっと絵の制作にまわしたほうがいいのにと思いながらも、九州男のガンコさ
(もっこすというらしい)とはこういうものかとあきらめた。
そのうち、金の盾を持ってかえるようになり、その数がどんどん増えていった。それなのに魚はもち帰らない。不思議におもって聞くと、「へら」は食べられない魚で、金の盾は優勝記念だという。
「食べられない魚を釣る」などということは、魚に縁のない山国生まれのわたしには想像もつかないことだった。
食べられない魚、しかも釣ったあとまた池にもどす。そのために、1日池をにらめっこしながらすわりつづける。なんという無益の行為。とすこし冷ややかな目でみていたが、ある時、美術家の吉村
益信さんが、月刊へらのカットと随筆を代わってくれないかと連絡してきた。
その仕事は、1年の予定が評判がよかったのか、かなり長く続いた。以後、オガタは堂々と釣りに励むようになった。
最初は、釣り場の景色が多かったが、かなり大胆に自由にさせていただけるようになり、オガタ独自のコラムになった。芸は身を助けるとはこのことねとわたしもやっと納得した。
マダム
2010年3月19日金曜日
■ カンパーニュプルミエール通りのカッフェで
古い写真は、全てモノクロ。スタッフの1人徳永さんがなつかしそうに「あら、モノクロですね」と声にだすほど、最近はモノクロ写真がめずらしくなった。
そんな古い写真の一枚に、オガタと同郷の画家宮崎静夫さんが送ってくださった写真がある。
カンパーニュ プルミエール通りにあったカッフェで、3人(オガタ、私、宮崎氏)が、くつろいでいる所。みんなワ・カ・カッタ。
この通りに、オガタが住んでいたと前のブログで書いたが、あとでよく考えたら、もっと以前に私もこの通りのアパートの一部屋を友人とシェアしていた時期があったことを思いだした。不思議に縁のある通りだということが、今わかった気がする。
この通りは、モンパルナス界隈にちかく、当時というより、20世紀はじめよりメトロヴァヴァンの前にある、ドームやクポールは、界隈のアーチストの社交場となっていた。毎日、アトリエの帰りにカッフェにより、コーヒーを飲むのが日課になっていた。カッフェには、常連さんが多く、各自の定席もあったりして、お互いに顔見知りで、ギャルソンもみんなの顔を覚えており、憩いの場所になっていた。
特に、クポールは、画家というより、文化人の溜まり場という感じだった。クポールの通りに面した一画は、カッフェになっていたが、奥はレストランとなっており、その一隅でサルトルとボーボワールが一緒に食事をするのに遭遇したり、日常のごく普通の風景にこういうシーンがある街は、魅力的だった。
今年、久しぶりに、ドームによって見たが、以前よりだいぶきれいに改装されていたが、
かってのような親しみやすい雰囲気が消えていたのは残念だった。
マダム
2010年3月17日水曜日
■ 「日野啓三:私のなかの他人」の装丁
人の記憶はあいまいなもの。(特にわ・た・し・)
先日、イッセイオガタの黒の作品のことを書いたが、実は、文藝春秋社から昭和50年に出版された日野啓三の「私のなかの他人」を開いて同じ作品が載っているのに気がついた。
日本に戻ったばかりで、これから銅版画をどのように展開させていくか、迷っていた頃、当時文藝春秋社にいた大学時代の同窓生和田氏から、本の装丁のお話を頂いた。非常にうれしいお話で、
モノクロの作品がどのような形で文芸書に現れるのか興味深かった。
時を経て、あらためてこの本を手にすると、その中のエッセイの一遍「形無いものの影」とオガタの
黒のシリーズが新しい顔で表れてきた。まったく違う次元と意図で制作していたものが、ある時、偶然に共通性をもって理解され、語りかける。新しい発見があった。
マダム
2010年3月15日月曜日
■ パリのアトリエ17
外国人によく知られているパリの版画工房として今も尚続いているいるのが、アトリエ17.
工房といっても、作家の作品を刷り師が専門にする工房ではなくて、作家たちが自由に制作できるアトリエのほうになる。私は、たまたま画家の矢柳剛さんの紹介でアトリエ17を知ったが、朝から夕方まで、真剣に仕事をするアーチストたちに触発され、その熱気にまきこまれていった。その後、アトリエの歴史をしったが、このアトリエから世界に様々なアーチストが飛び立ち、それぞれの国で活躍することになったのを知ったのはかなりたってからのことになる。当時は、作家たちのひたむきな生き方にのみ関心があった。同時期にアトリエで制作した日本人作家で現在も活躍している作家には、画家の矢柳剛、松谷武判、富樫実、吉田堅治がおり、それ以外にも多くの作家が活躍している。
アトリエ17は、イギリス人のスタンレイ ウイリアム ヘイターが1927年にヴィラ シャブロに開設。30年代には、ミロ、アルプ、タンギィなどがアトリエで仕事をしたこともあるという。1933年に、リューカンパーニュプルミエール17番地に移ったため、その番地をとって「アトリエ17(ディセット)」と名付けられた。このカンパーニュ プルミエール通りは、モンパルナス墓地に近い、ごく普通の通りであったが、60年代には、まだ木造アパートがかなり残っていた。その木造アパートには、アーチストも多く住んでいた。オガタが住んでいたアパートも、まさにこの通りの木造アパートにあった。同じ建物に、浜口陽三の仕事部屋もあった。同じ通りの入り口にあった、もっと立派な建物には、かって藤田嗣司や作家のヴォーヴォワールも住んでいたとのこと。パリの通りの名前の多くは、歴史上の人物の名前が付いていて、歩きながら歴史の勉強が出来る。このカンパーニュ プルミエールのアトリエは、第二次大戦まで。その後ヘイター先生はニューヨークにアトリエ17を移し、再びパリに戻ってきた1950年にリュー ダゲールに新しくアトリエ17を開いた。このアトリエも、木造であったが、取り壊しになるため、同じ通りのほかの場所に移転した。丁度、この時期に私も、オガタも一緒に版画を制作していた。1969年にパリを去った後、さらにアトリエは移転して、ヘイター先生が亡くなった後、助手をしていたエクトール ソニエがアトリエを継承。名前をアトリエ コントルポワンとして、今も世界中の生徒を受け入れている。
マダム
2010年3月13日土曜日
■ ”二階堂”と”いいちこ”のテレビCM
前回”いいちこ”の広告について書きましたが。
今回はいいちこに次ぐ有名麦焼酎”二階堂”の宣伝CMをご紹介します。
このCMは東京でも流れているのでしょうか?東京の我が家にはテレビがないので分かりません;
お馴染みの"いいちこ"のCMもご一緒に。
”二階堂”と”いいちこ”のCM。。方向性は似ていますが”二階堂”は多少、演出が狙いすぎな部分が見えてしまうのがタっちゃん的には気になるとこです。が、大分県民にはなじみ深く、落ち着くCMです。
これが夜ご飯時に流れるとどこかホッとしますー
製作は大広(大広九州)だそうです。監督や演出家などは情報は分かりません;
たっちゃん
■ ジョルジュ・マチュー
そのモティーフとなった作家、ジョルジュ・マチューについてもう少し詳しくマダムから話を聞くことができました。
僕も感心したように、「よくこんな自由なポスターがつくれたなー」っというのは、やはり時代背景がありました。
当時は彼のように「画家」が広告界に姿を現すことは珍しくなく、企業と画家の接点が強かったんですね。
他には「アフィシスト」というカテゴリーが出来るくらいポスター専門のペインターがいました。
特に60、70年代はそれが一番盛んだった時期と言われています。
んんーなんという生き生きした時代でしょう!今はなんとなく「画家」の立場が陰気くさいものになっているように感じます。海外はまだそうでもないのですが、ここニッポンは残念ながらその傾向が強い。。
日本でもこの時代には企業と画家の接点は強かったのですがこれについてはまた別の機会に取り上げようと思います。
さて、なぜ60、70年代のポスターがこうも生き生きとしているかというと、一つのポスターの企画がアートディレクター、アーティスト、グラフィックデザイナーというチームで進められていたからなんですねー
こういう話がマダムから聞けるのが面白くてしかたがないです。
まだまだポスター初心者のタっちゃんとしてはもっと知りたい分野になってきています@_@
タっちゃん
■ エールフランスのポスター2
しかし先日パリから帰ってきたマダムのお土産のチーズがまだ冷蔵庫の中にありますが、横を通るだけでチーズ臭くって、、、。
はっきり言って臭い足の臭いです・・・。
これをマダムは町田から銀座まで持って来たとは・・・@_@
「電車乗り換えるたんびに、乗客が鼻をくんくんして見る見る表情変えるのが分かったわよ。ホホホ。」
byマダム
恐るべしマダムの大きな肝っ玉^^;
たっちゃん
2010年3月12日金曜日
■ 下町のナポレオンの故郷
なのですが今下町のナポレオンの故郷に帰って来ています。^^;
下町のナポレオン・・・そう”いいちこ” そう、三和酒類 そう、 大分、ですー
せっかく大分にいるのだから大分発信のポスターを取り上げたいと思います。
そう”いいちこのポスター”です。
ひいきしている訳ではありませんが、今、日本で見る広告、ポスター、テレビ宣伝でこの”いいちこ”の視点、、デザインのレベルは目を見張るものがあります。
今日はいくつか”いいちこ”の広告をご紹介しましょう^^!
もうすでにお馴染みの広告ですが改めてどうでしょう・・・
非常に美しい広告ではないですか。。。
当時無名だった”いいちこ”をここまで大きく有名にしたのはその品質もさることながら、この広告、宣伝の効果もあるといえましょう。何人かのデザイナーの方がそれを手がけていますが、核になったのは、河北秀也。
『〈河北秀也〉1947年福岡県生まれ。東京藝術大学卒業。東京藝術大学美術学部デザイン科教授。アートディレクター。地下鉄マナーポスターシリーズデザインなどを手がけた。』
※スパイシーより
たっちゃん
■ ポスターの保管場所
2010年3月11日木曜日
■ パリの版画工房と作家たち
非近代的な、職人さんの作業所ともいえる雰囲気が漂っていた。
当時、日本からもいろいろな作家が、パリを目指し苦労しながらがんばっていた。作家が制作できる版画工房は少なく、伝統的なエッチング技法を学んだり、制作できる工房として有名だったのが、
ドイツ出身の版画家ジョニー フリードランデルの工房と新しい技法を開発したイギリス出身の版画家ウイリアム ヘイターのアトリエ17(フランス語でディセット)だった。一度だけ、フリードランデルの
アトリエを訪ねたことがあるが、薄暗い部屋の中に硝酸とインクの匂いが立ち込め、閉鎖的なイメージに驚いた。ただ、このアトリエで制作していた多くの作家は、その後ヨーロッパはじめ日本でも活躍している。日本の版画史にも残る作家として筆頭にあげられる浜田知明先生をはじめ、夭折した荒木哲夫。彼とは日本に戻ってから親交がはじまり何度か彼の個展を開催した。ドイツ人のウォルフガン ゲフゲンもフリードランデルのアトリエでオガタと一緒だったことを知ったが、最初は東京版画ビエンナーレで受賞した作品に感銘し、パリに会いに行きオガタを覚えていてその奇遇に驚いた。彼のメゾチントの作品は、物質を超えた精神性の極みを表現しているものとして、当時日本の作家たちにも多大な影響を与えた。その他、スイスの女流版画家で日本にも多くのファンをもつ
アンナピア アントニーニも同じアトリエだった。フリードランデルのアトリエはその後80年代に閉鎖されたと聞いている。
一方、私が通っていたヘイターのアトリエは、木造の一軒家でリュー ダゲールにあった。一軒家と
いっても、くづれんばかりのという形容詞が必要なくらいの建物ではあったが、天井が高く、開放的
だったのは、ヘイターの気質も影響していたのかも知れない。イギリス人としては小柄であったが、
ブルーの瞳は鋭く、講義は熱気がこもり、女生徒のお尻をそっとなでながらの講義もあり、すべて
新鮮だった。アメリカ、ドイツ、ベルギー、フランス、日本、マレーシアなどいろんな国から生徒が集まっていた。ヘイター式という銅版画の技法は、通常色版を何枚か重ねて刷る代わりに、1版のみで、ローラーを変えながら色を重ねて印刷できる1版多色刷りといわれる技法。最初に、この技法の理論と版の制作方法を学ぶと、あとは自由に制作できたため、各自さまざまな表現を追及して
毎日が充実していた。
マダム
2010年3月10日水曜日
■ エールフランスのポスター
なぜ今こんないい広告(ポスター)がないのか、っと思うと同時にこの時代だから合って良しとされた広告だとも思います。
広告=ビジネス、 当たり前の構図ですが、この時代は媒体そのものが限られていたということもあるけど広告での表現も生き生きしたものが多いな。。。
なんて思ったのがこのポスターを見たとき、
エ-ルフランス(AIR FRANCE)のポスターに描かれているイメージの作家はフランス出身のアーティスト、ジョルジュ・マチュー (Georges Mathieu )。
当時アクションペインターとして注目され売れっ子アーティストでした。
たっちゃん
2010年3月9日火曜日
■ イッセイ オガタの黒
結構せっかちに動き回る私と対照的に、パリの異邦人として100年1日のごとくゆったり暮らすことが身についてしまったオガタは、終生そのリズムを変えることなく、我関せずと、自由人としての生き方を貫いた。
その画家としての人生で、究極の色が「黒」であった。最初は、ドイツ人の版画家でパリで伝統的な版画技法のアトリエを構えていたフリードランデルのアトリエで制作していた。その頃の作品は現在殆ど残っていない。ここに紹介する作品は、ごく初期の作品で「パリ青年ビエンナーレ」に出品した作品です。晩年の作品からは、想像もできないシンプルな作品。でも
生まれたばかりの幼子のように、あどけなく(こんな表現はオガタをして赤面させるかも)
ユーモアさえ漂い、これからなにかが開花する予感を感じさせる作品です。
オガタが、版画を始めることになったきっかけは、当時パリのモンマルトルの丘で観光客あいてに似顔絵を描いていたところに、たまたま浜田知明先生がとうりかかり、同じ熊本県出身、大学も後輩ということで、親しくさせていただき、その頃先生が通っていたフリードランデルのアトリエに遊びにいくうち、版画をみずから制作するようになったようです。
画家なので、当然「色」「形」が話題になることは多かった。色のなかでは、いつも「黒」色が話題になった。銅版画は日本に戻ってからも続き、80年代のドローイング制作までオガタの作品の基調となった。最初の頃の黒も、次第に黒味を増し、その表情も、味わいも実に
奥深い美しいものになっていった。オガタの黒は、荒削り、オガタ流にいえば「野生の黒」
決して冷たい黒ではなく、情愛に満ちた色であった。
マダム
■ ぷっ、だけど、かなり関心
さて今日は・・・・
これが出てきた時、なんか笑っちゃいましたけど、非常に優れたデザインだと思うんです。
これ、今駅のホームや電車の中刷りにあったら相当目立ちます。
デザインは昭和50年代のもので印刷技法はシルクスクリーン。
作家は、これまた大御所、大橋正さんです。
たっちゃん
2010年3月8日月曜日
■ 今日から「ISSEI OGATA&DRAWING]展がはじまります!
*緒方一成展:ISSEI OGATA DRAWING&prints
会期:2010年3月8日ー27日 日曜休み 11時ー19時
会場:ギャルリーヴィヴァン
東京都中央区銀座3-10-19 美術家会館ビル4階
お問合せ:03-5148-5051
vivant@g-vivant.com
生涯、黒と線を表現の基調として追及していた緒方一成の未発表作品を中心に展示いたします。
そのダイナミックで刺激的な世界をご高覧くださいますようご案内いたします。
よく間違われますが、作家名はイッセイ オガタ、本名は緒方一成(おがた かずなり)です。
まちがわれるのは、有名なコメディアンと発音がおなじだからです。以前、ポーランドの未知の方からメールが届き、昔アメリカでみた作品が気になり、イッセイオガタで検索すると、コメディアンの
ことばかりで、やっとさがすことができたという内容でした。残念なことに、その時イッセイオガタは
既に亡くなっており、生きていたらすごく喜んだのではないかと思いました。
それにしても、アメリカでみたのは、1985年から3年間毎年、ニューヨークのアートエキスポに参加して、日本の作家を紹介していた頃の作品ではないかと思われます。その時、若い男性ですごく
イッセイオガタの作品を気にいいって買ってくださった方がいたことを思い出し、ずっと忘れないでいくださったのかと感激しました。
展覧会情報はこちらです
http://www.g-vivant.com/galerie/tenji.htm
マダム
2010年3月7日日曜日
■ わたくしどもは・・・
ただいま常設展示をしておりまして、まもなく緒方一成展の準備に入らせていただきます。
この整ったギャラリーの一角・・・実は今年の初めまで倉庫化しており床は愚か、奥の壁まで見えず、ストックの絵や空箱が天井まで届く勢いだったんです;;;;
そこを社長のGOさんと僕とで、「何とかせんといけん!」(二人とも九州の血が流れてます)っと、せっせこ町田と銀座を往復してやっとの想いで手に入れた聖域なんです。
ともかく私どもヴィヴァンでは毎月、一人の作家をフューチャーして絵画、版画を展示、販売をしております。
銀座にお越しの際はちょろっと覗いてみてくださいね。
たっちゃん
■ ニコンポスター2
僕は2度そのかっこよさにあっと驚きました。
この時代のポスターは今のようなドットで見せるオフセット印刷技術ではなくリトグラフやシルクスクリーンという版画の手法で生産されていました。
「*リトグラフ
平版を代表する版種。石灰岩、亜鉛版、木版等の平らな板上で、水と油の反発作用を利用して印刷する方法。元来、リトグラフは石版画を意味しており、1970年代頃まで実際に石灰岩を使用することも多かったが、現在は殆ど金属板になっている。また、日本独自の技法として木版を使用することもある。 」
「*シルクスクリーン
孔版の一種。シルクの布目を利用して、膠質の液体を塗り、版をつくる方法。
60年代にアメリカで開発された技法。フランス語ではセリグラフ。」byマダム
この作品はシルクスクリーン。
なのでよぉーくポスターの表面をみるとインクと紙との微妙な凸凹が見えます。
うーん。。分かんないですよね?
でもこの独特の凸凹が造る画面の色は非常に味があってなんとも言えない哀愁が漂っております。うん。
もちこのデザインも亀倉雄策様。
たっちゃん
2010年3月5日金曜日
■ 緒方一成という人
僕も一成さんとは何回かお会いしましたが、鋭くも優しい目は自分の心の奥深くまで見つめられているようでした。僕の絵も何回か批評して下さいました。
ファッションも含め非常に独特のオーラを放つ方で、
「表参道の人ごみの中200メートル先の親父を見つけた事があった。」
っと息子さんのお話^^
大学生だった僕はそのパワーに大きなショックを受けたのでした。
たっちゃん
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「絵は、空のように自由に描くのがよい」が、生前口癖でもあり、既成概念にまったく囚われない自由人を貫いた作家の魂の思いが伝わってくる作品です。
マダム
緒方一成(issei ogata)
熊本県生まれ
東京藝術大学デザイン科卒業
1961-1971 パリ在住
個展
1975,80 泉画廊
1978 クラーク画廊
1978-2006 ギャルリーヴィヴァン
中野紅画廊、ギャラリーフレスカ、ギャラリー原宿ピガ、ギャラリー華音留・・・・。他
2010年3月4日木曜日
■ ニコンポスター
僕がドイツにいた頃、街行く外国人みんな日本製のカメラを持っているので、不思議な感覚を味わったのを覚えています。
カメラに限らず、車、電化製品、はたまたテレビ番組(ドイツでは昼間、80年代の日本のバラエティー番組を吹き替え版で放送)、だったり、ふっと大した国よのう。ニッポン。っと思うことが多々ありました。
なぜ冒頭でNIKONっと呟いたかというと、70年代のNIKONのポスターを見つけたからです。
これを見たとき思わず声が出てしまいました。
カッコよすぎです。
デザインは1964年の東京オリンピックポスターなどで有名な亀倉雄策(かめくら ゆうさく)。
たっちゃん
2010年3月3日水曜日
■ アルミが映す錯覚
今日は家具のコレクターをしている友人から、ある「アルミを使ったポスターを探している。」
ということで早速マダムに相談してみました。
友人が探していた作家のポスターはなかったのですが、別のフランス人作家によるアルミ作品を取り出して くれました。
70年代の作家・・・作家の名前はマダムもド忘れしてしまっていたので思い出したら報告しますー
これまた写真じゃ分かり難いんですが、アルミ板を細かい線で削ってその反射具合で立体的に見える! 、というもの。
ポップな柄と気の遠くなる作業の痕跡、そしてアルミ画面から放たれる怪しいイリュージョン。
なにか言葉にできないアンダーグラウンドな雰囲気を感じますが、僕はこういうの好きです。
ちなみに僕の友人が探していたのはイタリアのポスター。
これもかなりクール!
詳しくは彼のホームページをご覧ください。
http://www.morikagu.com/morikagu/Jabik_6.html
どこかに私、たっちゃんの作品も載っていますー。
彼はコレクターで、僕とは 飛行機の席が偶然隣だったことから友人関係にいたった変な経緯があります^^;
たっちゃん
2010年3月2日火曜日
■ ブタにヒール
このなんともユニークでインパクトのあるポスターはアンディー・ウォーホル。
豚はしばしば作品のモティーフにされますが、このウォーホルのポスターは微笑ましく 、 どこかあっけらかんとした心地よさがあります。うん。
足を良く見ると、、おしゃれにもヒールを履いてるではありませんか^^
写真は少し暗いのですが本物は軽快な明るさがあります。
この作品は町田の某倉庫ではなくヴィヴァンにありますので来ていただければ見せれますー。
豚といえば僕はこのポスターよりも前に強烈なアーティストの作品を知っていました・・・
なので初めてウォーホルのブタポスターを見たときギョッ「タトゥーブタ!」と思ったのです。
ちなみにこの豚にタトゥーを施し、剥いだ皮は今や1460万円で落札されるほど。。
アーティストはベルギーの作家ウィム・デルボイ。
んんんんーーちょっと強烈です。
たっちゃん