2010年3月22日月曜日
■ イッセイ オガタ:黒の触視覚
パリ時代からずっとこだわっていた黒が、次第に重厚さを増し、黒々といろいろな物質、人体を覆うようになっていった。黒そのものをあたかも色としてより、生き物のように感じ表現したかったのかもしれない。
エッチングという技法は、時に実に禁欲的な作業に思われる。冷たく硬い銅板に向かって、もくもくと
ひたすら削ったり、塗ったりする作業をくりかえす。やっと、版ができると印刷の試し刷りがはじまる。
当時は、まだアトリエも完備していなかったため、マンションのベランダに1トンもする大型のプレス機を置いたはよいが、半分以上は上のベランダのひさしからはみだし、雨の時は、ぬれ放題。展覧会が近づくと、印刷が大変だった。うっかりすると、子どもが硝酸の入ったバット(プラスチックの大型容器)の中で裸足であそんだり、プレス機から飛び降りたり。元気な子どもと格闘しながらの制作だった。この頃まで、ワタシも版画を制作していたので、2人一緒の作業も多かった。
1978年に銀座7丁目のあたらしい場所に越したため、かなりまとめた作品を発表することができた。
その後、熊本、名古屋、札幌の画廊での個展がつづいた。
マダム
2010年3月20日土曜日
■ イッセイ オガタと釣り
ホームページリニューアルの仕事の期限が迫り、しばらくブログまで書けないのでよろしくと昨日
頼まれた。急に責任を感じたのは、ブログに慣れていないからかもしれない。社長のゴウさんもタッチャンもスラスラ書いているように見えるが、文才の違いなのか、どうも緊張感が消えない。
さて、今日は暖かいというより、暑いくらいの日差しとなった。こんな日は、釣り日和というのかもしれない。
いつの頃からオガタが釣りを始めたのか記憶にない。1976年に無謀にも画廊経営のいろはも知らず、銀座8丁目にギャラリ-を開いたため、わたしは、そちらに気をとられていた。
日曜になると姿が見えないオガタは、一体どこにいっているのか。普段子どもの面倒をみてくれているため日曜くらい1人になりたいのかもしれないと思い、あまり詮索した記憶はない。
そのうち、スケッチでもしているのかなと思っていると、浮きを作ったりし始めた。そのうち、竿が1本、2本と増えはじめ、やっと石神井にある釣堀にいっていることがわかった。雨の日も、風の日も毎週早朝から夕方まで必ず通っていた。
釣りにいっているのに魚の姿がまったく見えないのは、よほど釣りがうまくないのかと気の毒におもい、結果をきいたこともなかった。だんだん、絵の制作より釣りに夢中になっている様子が加速し、子どもが学校で、おとうさんの職業はと聞かれ、漁師と答えたと聞き、オガタに注意したことがあったが、釣りに捕らわれた人には、どんな言葉もつうじなかった。
内心、釣りの時間をもっと絵の制作にまわしたほうがいいのにと思いながらも、九州男のガンコさ
(もっこすというらしい)とはこういうものかとあきらめた。
そのうち、金の盾を持ってかえるようになり、その数がどんどん増えていった。それなのに魚はもち帰らない。不思議におもって聞くと、「へら」は食べられない魚で、金の盾は優勝記念だという。
「食べられない魚を釣る」などということは、魚に縁のない山国生まれのわたしには想像もつかないことだった。
食べられない魚、しかも釣ったあとまた池にもどす。そのために、1日池をにらめっこしながらすわりつづける。なんという無益の行為。とすこし冷ややかな目でみていたが、ある時、美術家の吉村
益信さんが、月刊へらのカットと随筆を代わってくれないかと連絡してきた。
その仕事は、1年の予定が評判がよかったのか、かなり長く続いた。以後、オガタは堂々と釣りに励むようになった。
最初は、釣り場の景色が多かったが、かなり大胆に自由にさせていただけるようになり、オガタ独自のコラムになった。芸は身を助けるとはこのことねとわたしもやっと納得した。
マダム
2010年3月19日金曜日
■ カンパーニュプルミエール通りのカッフェで

古い写真は、全てモノクロ。スタッフの1人徳永さんがなつかしそうに「あら、モノクロですね」と声にだすほど、最近はモノクロ写真がめずらしくなった。
そんな古い写真の一枚に、オガタと同郷の画家宮崎静夫さんが送ってくださった写真がある。
カンパーニュ プルミエール通りにあったカッフェで、3人(オガタ、私、宮崎氏)が、くつろいでいる所。みんなワ・カ・カッタ。
この通りに、オガタが住んでいたと前のブログで書いたが、あとでよく考えたら、もっと以前に私もこの通りのアパートの一部屋を友人とシェアしていた時期があったことを思いだした。不思議に縁のある通りだということが、今わかった気がする。
この通りは、モンパルナス界隈にちかく、当時というより、20世紀はじめよりメトロヴァヴァンの前にある、ドームやクポールは、界隈のアーチストの社交場となっていた。毎日、アトリエの帰りにカッフェにより、コーヒーを飲むのが日課になっていた。カッフェには、常連さんが多く、各自の定席もあったりして、お互いに顔見知りで、ギャルソンもみんなの顔を覚えており、憩いの場所になっていた。
特に、クポールは、画家というより、文化人の溜まり場という感じだった。クポールの通りに面した一画は、カッフェになっていたが、奥はレストランとなっており、その一隅でサルトルとボーボワールが一緒に食事をするのに遭遇したり、日常のごく普通の風景にこういうシーンがある街は、魅力的だった。
今年、久しぶりに、ドームによって見たが、以前よりだいぶきれいに改装されていたが、
かってのような親しみやすい雰囲気が消えていたのは残念だった。
マダム
2010年3月17日水曜日
■ 「日野啓三:私のなかの他人」の装丁
人の記憶はあいまいなもの。(特にわ・た・し・)
先日、イッセイオガタの黒の作品のことを書いたが、実は、文藝春秋社から昭和50年に出版された日野啓三の「私のなかの他人」を開いて同じ作品が載っているのに気がついた。
日本に戻ったばかりで、これから銅版画をどのように展開させていくか、迷っていた頃、当時文藝春秋社にいた大学時代の同窓生和田氏から、本の装丁のお話を頂いた。非常にうれしいお話で、
モノクロの作品がどのような形で文芸書に現れるのか興味深かった。
時を経て、あらためてこの本を手にすると、その中のエッセイの一遍「形無いものの影」とオガタの
黒のシリーズが新しい顔で表れてきた。まったく違う次元と意図で制作していたものが、ある時、偶然に共通性をもって理解され、語りかける。新しい発見があった。
マダム
2010年3月15日月曜日
■ パリのアトリエ17
外国人によく知られているパリの版画工房として今も尚続いているいるのが、アトリエ17.
工房といっても、作家の作品を刷り師が専門にする工房ではなくて、作家たちが自由に制作できるアトリエのほうになる。私は、たまたま画家の矢柳剛さんの紹介でアトリエ17を知ったが、朝から夕方まで、真剣に仕事をするアーチストたちに触発され、その熱気にまきこまれていった。その後、アトリエの歴史をしったが、このアトリエから世界に様々なアーチストが飛び立ち、それぞれの国で活躍することになったのを知ったのはかなりたってからのことになる。当時は、作家たちのひたむきな生き方にのみ関心があった。同時期にアトリエで制作した日本人作家で現在も活躍している作家には、画家の矢柳剛、松谷武判、富樫実、吉田堅治がおり、それ以外にも多くの作家が活躍している。
アトリエ17は、イギリス人のスタンレイ ウイリアム ヘイターが1927年にヴィラ シャブロに開設。30年代には、ミロ、アルプ、タンギィなどがアトリエで仕事をしたこともあるという。1933年に、リューカンパーニュプルミエール17番地に移ったため、その番地をとって「アトリエ17(ディセット)」と名付けられた。このカンパーニュ プルミエール通りは、モンパルナス墓地に近い、ごく普通の通りであったが、60年代には、まだ木造アパートがかなり残っていた。その木造アパートには、アーチストも多く住んでいた。オガタが住んでいたアパートも、まさにこの通りの木造アパートにあった。同じ建物に、浜口陽三の仕事部屋もあった。同じ通りの入り口にあった、もっと立派な建物には、かって藤田嗣司や作家のヴォーヴォワールも住んでいたとのこと。パリの通りの名前の多くは、歴史上の人物の名前が付いていて、歩きながら歴史の勉強が出来る。このカンパーニュ プルミエールのアトリエは、第二次大戦まで。その後ヘイター先生はニューヨークにアトリエ17を移し、再びパリに戻ってきた1950年にリュー ダゲールに新しくアトリエ17を開いた。このアトリエも、木造であったが、取り壊しになるため、同じ通りのほかの場所に移転した。丁度、この時期に私も、オガタも一緒に版画を制作していた。1969年にパリを去った後、さらにアトリエは移転して、ヘイター先生が亡くなった後、助手をしていたエクトール ソニエがアトリエを継承。名前をアトリエ コントルポワンとして、今も世界中の生徒を受け入れている。
マダム
2010年3月13日土曜日
■ ”二階堂”と”いいちこ”のテレビCM
前回”いいちこ”の広告について書きましたが。
今回はいいちこに次ぐ有名麦焼酎”二階堂”の宣伝CMをご紹介します。
このCMは東京でも流れているのでしょうか?東京の我が家にはテレビがないので分かりません;
お馴染みの"いいちこ"のCMもご一緒に。
”二階堂”と”いいちこ”のCM。。方向性は似ていますが”二階堂”は多少、演出が狙いすぎな部分が見えてしまうのがタっちゃん的には気になるとこです。が、大分県民にはなじみ深く、落ち着くCMです。
これが夜ご飯時に流れるとどこかホッとしますー
製作は大広(大広九州)だそうです。監督や演出家などは情報は分かりません;
たっちゃん
■ ジョルジュ・マチュー
そのモティーフとなった作家、ジョルジュ・マチューについてもう少し詳しくマダムから話を聞くことができました。
僕も感心したように、「よくこんな自由なポスターがつくれたなー」っというのは、やはり時代背景がありました。
当時は彼のように「画家」が広告界に姿を現すことは珍しくなく、企業と画家の接点が強かったんですね。
他には「アフィシスト」というカテゴリーが出来るくらいポスター専門のペインターがいました。
特に60、70年代はそれが一番盛んだった時期と言われています。
んんーなんという生き生きした時代でしょう!今はなんとなく「画家」の立場が陰気くさいものになっているように感じます。海外はまだそうでもないのですが、ここニッポンは残念ながらその傾向が強い。。
日本でもこの時代には企業と画家の接点は強かったのですがこれについてはまた別の機会に取り上げようと思います。
さて、なぜ60、70年代のポスターがこうも生き生きとしているかというと、一つのポスターの企画がアートディレクター、アーティスト、グラフィックデザイナーというチームで進められていたからなんですねー
こういう話がマダムから聞けるのが面白くてしかたがないです。
まだまだポスター初心者のタっちゃんとしてはもっと知りたい分野になってきています@_@
タっちゃん





