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Galerie vivant アートブログ~空のように自由に~

Galerie vivant アートブログ~空のように自由に~

2014年12月24日水曜日


今日は、クリスマス!

26日終了する赤星啓介さんの、今年のクリスマスイメージは、来年の干支の羊をテーマにした「church」。教会の屋根から飛び出すプレゼントを見上げる羊たちがかわいらしい。

毎年年末の恒例となった赤星さんの展覧会には、必ず翌年の干支をテーマにしたクリスマスの小品が展示される。12年前の羊は、空に舞いたつ羊たちだった。この干支シリーズを毎年買ってくださるファンも多い。もう何年続いているのか、遡るほうが難しいくらい

赤星さんは、ヴィヴァンで定期的に発表している作家の1人。大学を卒業した頃からほぼ

毎年発表してきた。銅版画の繊細な線と、アクセントにいれる手彩がやさしく決まっている。

こうして作家の成長と活躍をみながら展覧会が毎年続けられということは、画廊冥利に

つきるということなのか。

来年は、私の干支の羊年。おもわず時の速さに驚きました。

 
 

2014年11月24日月曜日

漱石と高倉健さんつづき

ブログを書きながら、いろんなことを同時進行しながらこなしていると、なにか物足りなさに気がつき、漱石のことは書いたが、健さんのことが足りなかった!
でも、健さんについては、私以上に世の多くの方がいろいろな思いをかみしめているのではないかという思いに至った。
ただ、漱石と違う、リアリティのある感慨は、すくなくとも数十年は同じ時代の空気を共有したという
思いが先行する。ふと、健さんという存在がいなくなるという喪失感は、時代の変化をまた象徴することなのかもしれない。それは、忘れかけていた自分の時代、存在にも深く関わってくる。
なんて、久々に感傷的気分になったが、一歩画廊の外にでてみれば、銀座はクリスマスムードで
にぎわっていた。
これが、現実なのでしょう!

時代の象徴 漱石と高倉健さん




11月19日の朝日新聞文化欄に、大きくオーストラリア駐日大使による漱石と横尾忠則による高倉健さんへの追悼記事が掲載されていた。記事をゆっくり読もうと思いながら切り抜いたまま、なかば茫然状態でテレビのチャンネルをいろいろ変えながら健さんの追悼番組に見入ってしまった。ふと、我にかえると健さんが亡くなってもう1週間がたっていた。

先週まで、漱石の遺墨木版画展を開催しており、その中の1点がずっと気になっていいて、

その作品のことを書こうと思っていた矢先、健さんの訃報に動転していた。たまたま、今週はコレクションのポスターを展示する予定で準備していた中に、横尾忠則のポスターが

あった。しかも、健さんのポスターが。。。。

漱石の水墨画は、明治時代の伝統的な手法を生かしたものが多い。その中で1点「梧桐」という作品がある。画面の中心に凛として仁王立ちのように立つ梧桐は、明確に左右にさわやかな、力強い空間をつくっている。当時としては、非常に斬新な手法による空間の演出に思え、この作品からは、明治という時代感がまったくないことが不思議だった。

現代においてもおかしくない、見事な空間意識に惹かれていた。漱石の文学の普遍性が

この作品にもでているのではないかとおもっていたところ、今日読んだ駐日豪ミラー大使が、漱石は転換期の文学と語っていることで、やっとこの梧桐の意味も理解できた思いがした。


2014年11月14日金曜日

黒子役:伊上凡骨と漱石の木版画




夕べ見たテレビの「和風総本家」で、たまたま木版画の刷りを決定する(ばれん)を
伝統的手法で作る職人さんを紹介していた。この番組は、主役をいかに伝統的日本人の技が支えているかという、黒子に徹した職人を逆主人公にした番組で、日本人に消えかけていた伝統への敬意と誇りを再認識させてくれる大変良い番組と時間があればみるようにしていた。
今開催中の「漱石遺墨木版画展」は、見る人が驚くほど自然に漱石の水墨画が再現されている。この木版画が制作された大正11年頃は、日本にまだ本格的な写真製版の技術が
なく、浮世絵の伝統を継承する版画師が新しい表現を取り入れる研究を始めたころであり、
当時の第一線で活躍していた凡骨がその技法に取り組んだ最初の人といわれる。
漱石とも親交のあった凡骨であったからこそ、水墨の滲む感じと漱石の気合いまで表現できたのではないでしょうか。その時、凡骨の手にも当時の職人さんが作った(ばれん)が握られていたことでしょう。




2014年11月12日水曜日

つれずれなるままに:またまたご縁




前回のブログから大分日にちが過ぎてしまいました。再開と宣言したのに。。。。。

月曜日から「夏目漱石遺墨木版画展」がスタートしました。

昨日たまたま寄られたお客様とお話しをしていると、その方がなにげなく「生前戒名」を

ご自分で決め、その名前の一部がなんと「則天去私」と知り、漱石の遺墨木版画集の

第一巻にその文字がはいっていることを伝え、元本をお見せすると大変感激なされました。

「則天去私」という言葉はしっていたつもりでも、それが漱石の言葉であったことは、
 
この遺墨木版画集に巡り合い、いろいろ調べているうちにわかり、これで長生きしてよか
 
ったという変な納得の仕方をしていたところでした。則天去私の言葉の意味も今なら、
 
そのまま素直に理解できる言葉として深く受け止められますが、いままでは言葉の記憶 
 
度で過ごしてきた気がします。

おもいがけず、お客様との会話からいろいろな世界が見えてきました。

 

 

2014年9月24日水曜日

つれづれなるままに。

つれづれなるままに


しばらくブログとご無沙汰していましたが、久々に高橋義治さんの版画展をすることになり、いろいろ準備をしているうちに、世のなかのいろんなご縁の不思議さについてあらためて考えさせられブログを書いてみる気になりました。

高橋さんの作品は、1985年に出版された五木寛之の「風の王国」の表紙になっていますので、記憶されている方もいらっしゃることでしょうが、なんせもう29年も前のことになります。先日、奥様から高橋さんの作品が選ばれたのは、たまたま飛行機の中で五木寛之氏と同席したご縁からと伺いました。
そういえば、私もそれよりずっと以前に、船の中で五木寛之ご夫妻と同席したことがあったため、いろんなことが思い出されました。

眠っていた記憶が、一挙に目覚めた感じです。
横浜とナホトカを繋ぐ航路で有名だったハバロフスク号は、当時といっても半世紀ほど前になりますが、日本からヨーロッパにいくシベリア鉄道経由の最初のステップでした。船の食事は、テーブルが決められており、同じグループが同席することになっていました。そこで同席したのが、まさに五木ご夫妻。
私は、パリ留学に行く途中であり、とてもお話上手な奥様の印象が鮮やかで、ご一緒の
五木氏は殆どしゃべらずなんと寡黙な方という印象だけが残りました。その時は、まだ
直木賞受賞前でどういう方かということは、船中2泊の会話では推測できませんでした。
その後、何年かして母がパリに送ってきた日本の雑誌に大きく直木賞受賞作家として載っていたのが、あの寡黙で大変繊細なイメージの五木氏で驚きました。その寡黙なイメージが突如崩れたのは、後年読んだ五木氏の小説のなかにでてくる、ヨーロッパ留学の女学生云々というかなり冷めた表現で、あの寡黙さは実は観察するためのものだったのかと気がついた次第です。
1980年に高橋さんの最初の個展をヴィヴァンで開催しましたが、その時高橋さんはすでにドイツで活躍しており、日本ではあまり紹介されていない銅板3枚を駆使した色彩版画は、日本でも好評のスタートをきりました。彩度を抑えた渋い色調に様々な記憶と印象が交差する幽玄の世界は、後年五木氏が「風の王国」の表紙に選んだのも、あの寡黙な

観察眼と繊細さに共通するものを感じたのかもしれないという思いがします。